今回のブログは前回のブログの続きです。
本題のブログに入る前に。
世間的には花粉大当たりの年の様子。
お医者さん曰く「10年に一度位」の花粉の大当たり年だとの事。
今まで花粉症の症状が出て無かった方も、花粉症続出の年かも知れませんね。
閑話休題。
家族で訪れた浅草寺。
正式名称は「金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)」。
由緒です。
浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。
寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。
仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。
そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。
「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。
この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」もこれに因む。
源頼朝公や徳川家康の尊崇が厚く、幕府の庇護を受けて発展してきたお寺です。
観音霊場は西国四国に多く、関東はどちらかと言えば不動信仰が多いと言われています。
俗に言うお不動さんですね。
ここ浅草寺の門前にはお土産屋さんやスウィーツのお店がズラリ。
この門前店も長引くコロナ禍で、かなりのお店が業態転換し、すっかり入れ替わっています。
テレビでインバウンドや観光客の増減のインタビュー風景がニュースで流れるのもここが多い所以です。
娘達はここのお芋屋さんでロックオンされてしまいました(笑)
数百年前の江戸時代から芋栗南瓜は女性の人気なのは変わらないですかね(笑)
僕も少し分けて貰いました。
凄く美味しい。
参拝後は有名ポイントへ。
この有名な巨大な提灯は京都の髙橋提燈株式会社が手掛けておられることは知らない方が多い様です。
雷門といえばの巨大提灯。
「雷門」と書かれた赤い大提灯。浅草のシンボル・雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっている。
雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」という。その創建年代は詳らかではないが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わる。
慶安2年(1649)に徳川家光が諸堂を再建したときの雷門。御遷座の行列が本堂に向かって進む(「慶安縁起」)。
提灯の底に施されている龍の彫刻。
風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来する。総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。風神と雷神は名のとおり風雨を司る神であり、風水害を除け、伽藍を鎮護するために祀られた。同時に、風雨順時と五穀豊穣の祈りも込められている。
風雷神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明であるが、文化年間(1804~18)の川柳に、「風の神雷門に 居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようである。
雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返している。寛永12年(1635)に建立された門が同19年(1642)に焼失したのち、徳川三代将軍家光の発願により慶安2年(1649)に再建。旧来の門を上回る美観を呈した。しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767)に駒形町からの失火で焼失。やがて寛政7年(1795)に再建され、この頃から提灯の奉納が行われるようになった。寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国、魚屋北渓など浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられている。しかし、幕末の慶応元年(1865)、浅草田原町からの失火により雷門まで延焼してしまう。
この慶応の焼失より実に95年間も雷門は再建されなかった。現在の門は、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。当時、松下氏は関節痛を患っていたが、それを聞いた当山中興第24世清水谷恭順貫首がご本尊に祈願したところ快復し、その御礼の意を込めて松下氏個人で寄進されたものである。江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせている。
慶応の火災の際、風神、雷神像は頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を補った。昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、補修・彩色されたのが現在の像である。
また、雷門の北の間(風雷神像の背後)に安置されている天龍像と金龍像は、水を司る龍神であり、浅草寺の護法善神である。昭和53年(1978)、松下グループ有志の寄進で、両像は平櫛田中、菅原安男両氏の作である。
雷門の辺りには全然人がいなかったので家族で一枚パチリ。
普段は観光客でごった返すので、とてもじゃないですがこの間隔では撮影は出来ません。
手にはしっかりおみくじも(笑)
僕一人なら東京では神田の古書店街か秋葉原辺りへ繰り出すのですが・・・この日は家族の観光中心のプランです。
浅草には老舗のお店も多く、ゆっくり半日観光もしたいところ。
しかし娘達のリクエストは今風。
続く・・・
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