今回のブログは前回のブログの続きです。
竹生島上陸後は名所巡りが続きます。
この竹生島は弁財天が有名で奈良時代から信仰の対象として篤く敬われてきました。
島全体が花崗岩の一枚岩で出来ています。
「(神様)斎(いつ)く島」が島名の由来で、竹生島弁財天は江島神社、厳島神社と並んで日本三大弁天の一つに数えられています。
戦国時代にはこの地は湖北・湖東地域を治めていた浅井氏の勢力圏で、越前の朝倉氏とは浅井氏三代に渡って繋がりがあり、永禄13年(1570年)4月20日の織田信長公の越前朝倉攻めでは突如信長公を裏切り「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる挟撃戦で織田軍を全軍撤退に追い込みます。
この時信長公は湖北から琵琶湖西岸の朽木を抜けて逃げに逃げて京都に命からがら辿り着きます。
この後、織田・徳川連合軍との「姉川の戦い」や木下藤吉郎のちの豊臣秀吉公による「小谷城攻め」を経て浅井氏三代は遂に滅亡するのですが、この過程で竹生島も信長公配下の明智光秀公に軍船で攻められた記録が残っています。
下の写真は仏舎利塔をかたどった三重塔で1484年に建てられました。
織豊期の戦国武将の有名どころは滋賀や愛知辺りにかなり揃っているので、歴史を知ってから参拝するのもおススメです。
僕はいつも誰かしら案内するつもりで観光しますけど・・・家族は「馬の耳に念仏」(笑)
歴史ある建物観て雑念を振り払い・・・気を鎮めます(笑)
極彩色の不動明王像。
僕はこの神様大好きです。
下の写真は竹生島宝厳寺の本堂です。
大弁財天を祀っています。
ご本尊は秘仏の為に普段は非公開で、60年に一度公開され次回御開帳は西暦2037年とのこと。
下の写真は国宝「唐門」。
京都東山の豊国廟の極楽門を移築したものと伝わります。
豪華絢爛な桃山様式の文様が間近で見られます。
2013年度より「唐門」「観音堂」「舟廊下」の檜皮屋根の全面葺き替え、彩色・漆塗りの塗り直し、及び飾り金具の鍍金メッキ仕上げ等の修復保存事業が2020年に完了したばかりです。
唐門内部。
300年、400年前の昔の方が観ればCGや特撮の無い時代ですし、天国を身近に感じれたことでしょうね。
下の写真は「舟廊下」です。
宝厳寺観音堂と都久夫須麻社本殿をつなぐように建てられている全長30mもある廊下です。
豊臣秀吉公の御座船「日本丸」の一部を利用して建てられており、重要文化財です。
傾斜地に建てられているので、京都の清水寺と同じ「舞台造り」が観れます。
昔の職人さん達の技術は木を知り尽くし活かし切ってますね。
木材は適切に処理すると数十年、数百年経過すると締まって固くなり、強固になります。
下の写真は琵琶湖の湖北の北側の風景です。
この対岸にある葛籠尾崎の沿岸や竹生島との間には湖底遺跡(葛籠尾崎湖底遺跡)があります。
最大で水深70mほどの湖底から、漁師の網に引っ掛かるなどして約140点もの土師器・須恵器や土器が、ほぼ原形をとどめたまま引き揚げられています。
これらの製作年代は縄文時代早期から弥生時代、さらに中世まで幅広い時代に及ぶと考えられていて、遺跡の形成過程については、津波などで集落が水没した、船が沈んだ、祭祀として沈められたなど諸説あるようです。
琵琶湖でバスフィッシングしてるとこの辺りの地形を魚探掛けしますけど、岸から急に10m落ちるとかはざらで、急深の岩だらけの水中がほとんどを占めます。
そして海津大崎は桜の名所ですが「幽霊」の名所でもあります。
僕も何度か怖い目に。
この後も竹生島観光は続きます。
続く・・・
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